仙界/双竜 > 天人の沼 3
-- Update :2004-08-19 --
3〜4年後? / −、月璃
頭の奥で祖父の語り声が響いている。そう、彼は今まさにその物語の情景の中に居るのだ。
此処は天人が降りてくると言われている沼。だとしたらこの目の前に居る人物は、天人だと考えるのが自然だろう。
その出で立ち――純白の薄い衣を纏ったその姿も、俗世の穢れなど知らぬかの様なその面差しも、そう結論付けるに充分な裏付けとなった。

あまりにも彼が凝視していたせいか、天人は眉を顰めこちらを睨み据えた。
気分を害してしまったかと彼は内心慌てたが、それでも矢張り目を逸らすことは出来なかった。
天人が動く度に、透明な水の滴がきらきらとこぼれる。そして赤い滴も――赤い?

「え……ちょ、あんた、怪我してんのか?」
「……ああ、起きてたんだ?てっきり目ぇ開けたまま寝てんのかと思ったよ」

揶揄するような物言いでもどことなく小馬鹿にしたような仕草でも、矢張り美しく――いや、それは今は置いておくとして。
天人とて怪我をすれば痛みもあるだろう。

「……と、とりあえず――手当て。手当てしなくちゃ」

荷物を降ろし、近寄ろうとする彼を天人は軽く制止した。

「触れない方がいいよ。コレ……あんたには多分毒だろうからさ」
「毒……?ああ、でも。一応止血くらいはしとかないと」
「平気。こんくらいの傷、すぐに治るから。
 ……それより、そこ退いてくんない?上がりたいんだけど」
「あ、ああ。そっか。ごめん―――」

後ろに投げ捨てた荷物を拾い上げようと目を離したその時、背後で盛大な水音が響いた。
慌てて振り返った彼の目に映ったのは、水辺に意識を失い倒れ伏した天人の姿だった。

「…………。ええと……」

……放っておく訳にもいかないだろう。彼はそこまで非情な人間ではない。いやむしろ、お人好しで結局は損をする性質なのだが。
躊躇したのは果たしてこの相手に触れたりしても良いのかどうか、という理由からだった。
目の前の天人は見るからに潔癖そうな雰囲気を醸し出しているものだから、尚のこと。
……まあ良い。ここで見捨てて後味の悪い思いをするより、後で怒られる方がましだ。意識を失ったりするほうが悪い。
彼はまた楽観的で大雑把な性格でもあったのだ。

荷物の中から一番清潔そうな布切れを取り出し、天人の怪我の部位をくるむ。
血が毒になるとか言っていたが、こうしておけば問題はないだろう。

さて―――。

近くに身体をゆっくり休めることのできる場所でもあればいいのだが。


幸いなことに沼からそう遠くない位置に、風雨を十分に凌げる洞があった。
中もそこそこに広く、天人の身体を横たえ荷物を広げ、自分もくつろぐことのできる程度の空間はあった。
火を起こし暖を取り、洞の壁を背に腰を下ろすと、長旅の疲れか程なく彼も眠りに落ちていった。
続きます。
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