少し前 / 月璃(白竜)、黒竜、金烏(千鴉)
扉の無い部屋の入り口をくぐると、微かにりん、と鈴の音が聴こえた。
この部屋には結界が施されており、主が許した者でなければ何人たりとも入ることはできない。
「―――誰……?」
衝立の向こうから白竜が誰何する。
心なしかけだるげな、弱い声。
「……千、…………金烏?」
姿を見せると寝そべっていた身を起こし、こちらを見つめてきた。
「元気無いね。なんかヘマやっちゃったって聞いたけど」
「……ちょっとぼーっとしてただけだよ」
拗ねた様にそう言うと、またクッションにぽすんと顔をうずめる。
見るとその左の白い腕には包帯が巻かれていた。
「怪我、したんだ」
「……ああ、少し血ぃ出ただけだし。大したことない」
「もしかしてこれ、自分でやった?」
その腕に触れ、思わず苦笑する。
不器用に巻かれた白い布は、辛うじてなんとか腕に留まっているという感じだった。
「……仕方ないだろ。他のヒトに触られるなんて真っ平御免だし」
ますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「でもこれじゃすぐに外れるよ。――貸してみ、オレが巻いたげるから」
そう言うと白竜は、膨れっ面ながらも大人しく腕を差し出してきた。
「……なんかさ、わかんなくなっちゃって」
ぽそりと白竜は呟く。
「何が?」
「んー……。色んなこと?何がわかんないのかもよくわかんない」
そう言って力なく笑った。
「もうずっと、苛々もやもやしてて……なんか最近、自分が酷く醜く思える。
そんな自分嫌でたまんないのに。でもどうしたらいいのか判らないんだ。
……前は、こんなこと無かったのに」
小さく吐き捨てるように言う白竜は、ただのちっぽけな子供に見えた。
「キレイなだけのヒトなんて居ないよ。醜い心なんてね、誰だって持ってるし」
頼りなげに見上げてくる白竜の頬を軽くつねる。
「大事なことさえ忘れてなけりゃ、大丈夫。
―――白竜にとってさ、一番って何?」
「……一番?」
「一番大切なコト。そだな、一番やりたいこととか一番失いたくないものでもいいや。
他人になんと言われようと、譲れないもの。
……訳分かんなくなったらさ、それだけ考えるようにすればいいんだよ」
彼自身もまた、そんな風にして生きてきた。
「それを見失いさえしなけりゃきっと大丈夫だから」
そう言って髪をくしゃりと撫でると、白竜は一瞬、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔になった。
―――ああ、そうか。
解った。翳りの正体。
きっと自分でも気づいていない、白竜を此処に縛り付けているもの。
「……あのさ、月」
そう呼ぶと白竜は僅かに顔を上げた。
「我慢なんてすることないよ。泣きたいなら泣けばいい。
オレのこと呼んでくれたら、すぐにでも飛んでいくから。
愚痴だろうとなんだろうとぶちまけてくれていーからさ」
おそらく月璃は思い切り泣いたことなど無いに等しいのだろう。
ほんの幼い頃から、ぎりぎりのところで我慢して堪えて、周囲に悟られまいとする。
あの男が来てからはそれも減りはしたのだが、今では別の理由で月璃は泣かない。泣けない。
「憶えといて。オレはいつだって月の味方だから。
何があっても裏切ったり離れてったりはしないから、だから―――」
自分のことなど捌け口にしてくれて構わない。
それで白竜が、月璃が笑っていてくれるのなら。
伝えなければならないことがあった。そのために、彼は此処に来たのだから。
それはきっと月璃が何よりも知りたかった答え。
「―――あいつね、全然動こうとしないんだよ」
その言葉に白竜はぴくりと反応する。
「馬鹿みたいにさ、ずっと離れようとしないの。月の傍から」
「…………」
「誰か部屋に来ようもんならすげえ威嚇するんだぜ。
参っちゃうよほんと。オレ全然近づけなくてさ」
待ってるんだよ、月が目覚めるの。
……本人もそれに気づいてるかどうかは怪しいところだけどね。
白竜の目から涙がこぼれ落ちる。
彼はそのまぶたに静かに口付けた。
黒竜から白竜帰還の許可が下りたのは、それから数日の後のこと―――。
続きます。
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