仙界/双竜 > 白月夢 3 「四日目:竜」
-- Update :2004-02-13 --
少し前 / 月璃(白竜)、黒竜、金烏(千鴉)
風が肌を撫でる。
細かい水の粒子が体中に絡みつく。
息を吸い込むと、冷たい清涼な空気が体内に染み渡る。
身体が、歓喜の声をあげる。

澱んでいた何かが段々と清められてゆくのが解った。
このままずっとこの清らかな雲の中を泳いでいたい、そんな気分にさえ囚われる。
此処には自分を阻むものは何も無い。
思うように動かない重い身体も、直ぐに息の切れる濁った空気も。

なのにどれほど翔び回ろうとも、決して満たされることはなかった。
心はいつも下を向いている。
戻りたい。地上へ、あの場所へ。
帰りたい。一刻も早く。
自分の求めるものは、この空の上には無い。


随分と長い時間此処に居る気がする。
一刻一刻が過ぎてゆくのがとても遅い。
空の上では地上よりも時間は速く過ぎてゆく筈なのに。
実際にはまだたった数日しか経っていない。

雲海の中を泳ぐのにも飽きて、今は水晶宮の中心にある部屋で寝そべっていた。
柔らかく肌触りの良い、大きくゆったりとしたクッション。
気に入りの場所の筈なのに、やはり気分は一向に晴れない。

「退屈そうだな、お姫様」
声のした方に視線だけをちらと向ける。
「……何か用?朗報でも持って来てくれたの?もう戻っていいとか」
「残念ながらその答えは、否」
「だったら何だよ。……悪いけど僕今虫の居所あんま良くないの。用が無いなら放っといて」
ごろんと一つ、寝返りを打つ。

聞かずとも判っていたことだが。晴れない気分が何よりの証拠。
改めて聞くと益々気が滅入ってしまった。

「御機嫌斜めだな。そんな風に腐ってばかりだといつまで経っても戻れやしないぞ」
……判ってる。言われなくても判ってる。
でもだからといってどうしろと言うのだろう。
早く戻りたいと、気持ちばかりが焦ってしまう。
地上の引力に引き摺られ、絡み付いて離れない。

翳りを消せと黒竜は言う。
その翳りの本質を、自分もおぼろげながら気付いている。
だけどどうすればそれが消えるのかなんて判らない。
地上に焦がれれば焦がれるほど、翳りも強くなる気さえしてくる。
どうすればいいのかなんて判らない。


「ああ、それから」
とってつけたように黒竜は切り出した。
「杏朔からの伝言。戻って来てるなら顔ぐらい見せろってさ」
「……冗談。何それ、何かの嫌がらせ?」

ただでさえ憂鬱この上ない気分なのに、さらに追い討ちをかけるような真似はやめて欲しい。
「向こうに言っといてよ、用があるならそっちから顔出せってね。
 まあ来た所で会ってなんかやんないけど」
黒竜は少し肩をすくめただけで、後は何も言わなかった。

「ねえ、それより金烏は?あいつ居ないの?」
そういえば此処に来てから、まだ一度も姿を見ていない。
「ああ、あれなら下で留守番。自主的にね。……向こうのお前も心配なんだとさ」
「……ふうん……」
彼が傍に居てくれたら、少しは気が楽になれるのに。

つまらなさそうにクッションの上でごろごろしていると、不意に黒竜が何か投げて寄越してきた。
「な、何……?」
慌てて両手でそれを受け取る。見ると甘い良い香りを放つ果実だった。
「食えよ。お前此処来てから何も口にしてないだろ」
「………お腹、空いてない」
ふい、とぶっきらぼうに言ってはみたものの、その香りが鼻孔をくすぐると不思議と食欲が沸いてきた。
「まあいいから食っとけ。な?甘いもん食えば多少はそのピリピリカリカリも収まるかもしれないし」
くすくす笑う相手をじろりと睨み付ける。
見透かされてるようで面白くない。


黒竜が去った後、手の中の果実を一口齧った。
たちまちのうちに甘味と芳香が口一杯に広がる。
身体の中の細胞が活性化されてゆく。
空の上で成るその果実は、ただびとが口にしてさえもある程度の寿命を永らえさせると云う。
叶うならば、人でいる時にこれを口にしたかった。
遥か下の地上で眠る、あの弱く脆いもう一人の自分―――

永遠に生きたいとは思わない。
だけどせめて、もう少しだけ長く、人の姿で在りたい。
そう願うのは愚かしいことなのだろうか。
続きます。
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