仙界/双竜 > 天人の沼 1
-- Update :2004-08-17 --
3〜4年後? / −、月璃
その沼は深い深い、空気も薄れるほど高い山の奥深くにひっそりと存在する。

二日ばかり前に通った道はまだ難なく進めるほどであったと言うのに、今彼が足を踏みしめている場所はもはや道とすら呼べる代物ではなかった。

(―――本当に、存在するんだろうな………?)

もう何十回となく繰り返した弱音を吐きながら、それでも彼は足を止める事をやめない。
そうまでして彼がその沼に辿り着こうとする理由は、そのほとりに立つ木に生る実を手に入れるためだった。
数十年に一度しか実をつけないと言うその木は、天人の手によって植えられたのだと言う言い伝えだ。
そんな夢のようなものが実際にあるものか、よしんばあったとしてもただびとが其処に辿り着ける訳がないと、村の者は笑った。
彼は然程夢見がちな人間と言うわけではない。が、その話を信じているのには確たる理由が有った。


まだ彼が幼い頃、絵師であった彼の祖父は、寝物語に幾度となく彼にその沼と木の話を聞かせてくれた。
幼い少年にとってはそれが真実かそうでないかはさして重要ではなかった。ただ、心躍る夢のようなその話が大好きで、飽きることなく聞き入っていた。

今から数年前、亡くなった祖父の遺品を整理している時にその絵は出てきた。
祖父が生涯手放そうとしなかった絵、それは鬱蒼とした森の中にある沼の絵だった。
彼がその絵に魅入られたのは、絵の構図やらだけが理由ではなかった。その中にちりばめられている色彩、それは祖父と同じく絵師の道に進んだ彼も、未だかつて目にしたことのない色の染料だったのだ。

そうして彼は思いだす。かつて祖父が一度だけ、あの沼の話と共に彼にこの絵を見せてくれたことを。
そうだ。自分があれほどまであの話に心奪われたのは、この絵を見せられてからだった。
祖父はこうも言っていなかったか。この沼のほとりに生っていた実で、この染料を造ったのだと。
幼い自分はただ感心してその話を聞いているだけだったが、今なら判る。あの話が真実だったと言うことが。
何十年と経っても色褪せることの無い輝き。このような色彩は、俗世の物質で出せるようなものではないのだから。
そしてあのお伽噺は、単なる夢物語ではなかったのだと。

そして今年、言い伝えによると沼のほとりの木が数十年ぶりに実を結ぶ年。
彼は記憶の中の祖父の話を頼りに、この山に足を踏み入れたのだった。
どこかの若者が山奥で出会った人物と不思議な体験。
続きます。
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