少し前 / レンカ、BJ、イサム、シエル
シエルの怪我は致命傷には達していなかったものの、弱り切った身体に加え大量に出血していたため、一晩は生死の境を彷徨っていた。
ひとまず峠は越し、多少容態も落ち着いてきたが、油断は出来ない、そんな状態が続く。
……未だ、彼女は目覚めない。
どうして自分は今、ここにこうして生きていられるのだろう。
あの時レンカの意識もまたそこに在った。
自分が何をしたのか、何を感じていたのかはっきり覚えている。
あの白い女の存在が疎ましくて堪らなかった。
アレは自分の存在を危うくする。消さなければならない、そう判断した。
「自分」とは一体誰のことだったのか、そんなことはもうどうでもいい。
彼女に殺意を持っていたのは他でもない、この「自分」で
彼女を傷つけ死の淵に追いやったのは、間違いなくこの手なのだ。
守ってやるだとか何とか、どんなに格好の良い綺麗事を言ったところで、現実は今こうして彼を嘲笑っている。
最も彼女を害する危険があるのは、他の誰でもなく彼自身なのだと。
なのに、何故
どうしてあの時、彼女は微笑ったのだろう。
自らを傷つけた存在に対し、何故あんな笑顔を見せることが出来たのか。
その笑顔は、彼が一番欲しかったもの。
だけどまさか、あんな瞬間に目にする事になろうとは思ってもみなかった。
何よりも誰よりも、守らなければならない存在。
それを、俺はこの手で―――
「―――い、おいってば!」
急に肩を揺すぶられ、思考が中断された。
BJはふうとため息をつく。
「あのさあ、あんまそんな風に思いつめんなよ。
なんだかんだで結局はまあ、お前も元に戻ったわけだしさ」
本当にそうなのだろうか……?
ここにいる「自分」が「レンカ」であると、そう確信を持って言える自信が今現在の彼には無かった。
「……なあ、もしかしてお前、このままあいつ置いてどっか行こうとか思ってんじゃねえだろうな?」
考えていたことを見抜かれて、無意識に視線を逸らす。
この先どうすればいいのかなんて、全然分からなかった。
どうするのが最善の方法なのか、考えても考えても思いつかない。きっと答えなんてどこにも無いのだ。
ただひとつ確実なことは、傍にいると必ず、彼女を傷つけてしまうという事。
現に今も彼女は死にかけていて―――
「おいちょっと落ち着けよ、医者だって言ってただろ?もう心配無えって。
……あのさあ、悪いと思ってんなら尚更、傍に居てやれよ。
あいつあん時、自分の身の危険なんてこれっぽっちも考えてなかったんだぞ?下手すりゃ死んじまってたかもしんねーのにさ……」
馬鹿だよな、とBJは呟く。
本当に馬鹿だ。
自分にそれ程までの価値があるなんてどうしても思えないし、そうまでして生き延びたいとも思わない。
「なあ、お前分かってんのか?自分の存在があいつにどれだけ影響与えてんのかって事。
お前居なくなって、あいつ一人で生きていけるとか……本気で思ってんのかよ」
*
「そいつは聞き捨てならないな」
いつの間に部屋から出てきたのか、シエルの治療をしていた医者が口を挟んできた。
「全く……夜中にいきなり叩き起こされたかと思えば、この忙しさはなんだ。
ただでさえ人手不足だというのに、これ以上仕事が増えるのは勘弁して欲しいな」
宿の火事で多くの負傷者が出、不眠不休で働いていた医者は相当機嫌が悪いようだ。
「忙しいのを理由に手ぇ抜いたりしてねえだろうな。なんか全然目ぇ覚さないのが約一名居るんですけどー」
医者はギロリとBJを睨む。それだけでもかなりの迫力だった。
「見くびるな。処置は完璧だ。
一つ言っておくがな、医者を万能な存在だとは思うな。本人にその気がないのに治そうなんてのは誰であろうと不可能なんだよ」
医者は眉間に皺を寄せている。それだけ苛々が募っているのか、それとも元々愛想が悪いのか……おそらく両方だろう。
「それに、体力が保つかどうかが問題だな。
……だからあれ程、普段から摂生に気を付けろと言っておいたのに」
独り言のように呟いた後半の台詞を、BJは聞き咎めた。
「何?あんたあいつの事知ってんの?」
「ん?……ああ、前からちょくちょく診てたからな。ここんとこご無沙汰だったんで調子がいいのかと思ってたんだが。
久々に会ってみたらまさか死にかけてるとはね」
そういえば、シエルから懇意にしている医者が居ると聞いたことがある。
彼女にしては珍しく信頼しているようだった。確か、イサムとかいう名だったか。
「……以前から気になっていたんだが、あの娘には少々生きるという欲求が足りないように思うんだがね」
それはレンカも痛いほど思い知らされていた。
そうでなければ、あんな暴挙になど出られるはずがない。
「そこの赤い小僧」医者はレンカを見据える。
「おまえさんにどういう事情があるかなんて俺の知った事じゃないがな
覚えておけ。彼女が生きる希望を失うようなことがあれば、俺は治療を放棄する。
……折角助けた患者のそんな姿を見るのは、勘弁して貰いたいんでね」
……生きて、ゆけと。
彼女を守って生きてゆけと、そう言うのだろうか。
いつまた化け物に変わってしまうか分からない、―――いつまで傍に居てやれるかすら分からない
この、身体で―――
「……おい、お前さ」
医者が出ていってしばらくして、BJが不意に話しかけてきた。
「自分が誰だか分からないっつってたよな。分かんねーんなら言ってやるけど、今のお前はレンカだよ。俺が保証してやる」
彼は不思議なほど自信たっぷりに言ってのける。
「キリってやつに乗っ取られて、それでもお前、ちゃんと戻って来てんだよ。
……なあ、それって何でだか判ってるか?
あのキリに勝てたのはどうしてかって事、お前ちゃんと理解してんのかよ」
……戻ってきた、理由?
ああ、そうだ。
あの時、声が―――
*
閉じられていたまぶたがゆっくりと開き、薄い紅色の瞳が光を取り戻す。
「―――シエル……」
少女は僅かに頭を動かし、声を掛けた少年の姿を認めると、安堵したような表情を浮かべた。
「……良かった。そこに居たのね。
あのね……私、嫌な夢見たの。……あなたが居なくなっちゃうの。
呼んでも呼んでもちっとも届かなくて……凄く、怖かった」
今にも泣き出してしまいそうな程、か細く頼りない声。
「…………俺はここに居るよ」
その言葉を聞き、シエルは嬉しそうに微笑う。
「―――ね、約束……覚えてる?」
「…………」
不意の質問に、戸惑いながらも頷く。
―――楽園へ行こう―――
夜の庭で交わした、あの約束。ただ、彼女の笑顔が見たくて口にした一言だった。
何処かにきっとあると信じていた幼い日々。そんなもの、どこにもありはしないというのに。
「あのねレンカ、私判ったの。
あなたが居るだけで私、泣きたくなるくらい幸せなの。
こんな風にあなたが傍にいてくれる、それだけでもう、この場所は楽園になるの……」
シエルの白く細い指が、彼の手を握り返してくる。
「私、生まれてこれて良かった。
辛いことばっかりだったけど、生きてきて良かった。……だって、あなたに逢えたんだもの。
こんな風に思えるようになったのは、……自分を少しでも好きになれたのは、あなたのお陰なの。
あなたは私に、素敵なものをいっぱいくれたのよ……
……だからお願い、そんな風に泣かないで……」
言われて初めて、自分が泣いていることに気付いた。
言葉にならない想いが溢れてくる。紛れもない、自分の感情。
シエルを愛しく思う気持ちも、失いたくないという想いも。
……生きていたいと、願う心も。
誰のものでもなく、自分の心なのだと思えたから
涙が溢れて、止まらなかった。
声が、聞こえる。
もうすっかり耳に馴染んでしまった声。
記憶を失ってからも、真っ黒な感情に飲み込まれてしまった後も
自分を見失わずにすんだのは、彼の名を呼ぶ少女の声があったからだ。
こんな風に何度も何度も、もうずっと前から
……お前は俺のことを、呼んでくれてたんだな。
長い間降り続いていた雨もようやく上がり、夜空には星が輝いていた。
そして彼は夜の明るさを知る。
それはいつだってそこに在り、優しい光で導いてくれていた。
真っ暗な闇を静かに照らす、小さな月の存在に
レンカは今、ようやく気付いた。
赤視点。再出発編。
了。
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