少し前 / [ノルフィス] 菖蒲(ミザル)、桔梗
彼女が目を覚ました時、そこは自室のベッドの上だった。
脇の暖炉には暖かな火が燃えている。
「…………?」
記憶が混乱している。自分がどうしてここに居るのか思い出せない。
再び目を瞑り、ゆっくりと順を追って記憶を確かめる。
(―――私……私の名前は……、そう、ミザル)
行き倒れていた彼女に、この屋敷の主がつけてくれた名前だ。
そう、自分はそれ以前のことを憶えていなかった……から。
この屋敷で暮し始めて、もう随分と経つのに
今になって心にぽっかりと穴が開いたような気分になるのは何故だろう?
大切なものを、忘れてしまったそんな感覚。
なのに不思議と寂しいという想いは無かった。
心の空洞の中には、確かに暖かなものが宿っていたから。
その正体を彼女は知らない。
だけど決して一人ではないということを、そのぬくもりは伝えてきた。
涙がぽろぽろと零れる。
哀しくはないのに。辛くもないのに。
その涙の正体を、彼女は知らない。
みい、と傍らで仔猫が鳴いた。
名前を呼んで、彼女は仔猫を胸に抱き上げる。
気配に気付いて、部屋の扉がコンコンとノックされた。
彼女は顔を上げて慌てて返事をする。
そして遠慮がちに扉を開けた屋敷の主を
嬉しそうに、笑顔で迎えた。
了。
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