少し未来? / クローディア
まだじんじんと痺れの残る掌をきつく握りしめて、人の増え始めた通りを大股で歩く。
未だ消えない痛みが余計に苛立ちを募らせた。
昨夜は疲れが出ていたのか、夜も更けきらないうちにうとうととしてしまった。そして目覚めてみれば、彼の姿は見えず部屋に鍵が掛けられていたのだ。
こんな風に黙って居なくなられることは珍しくもなかったが、その度にもやもやしたものは胸の内に積もってきていた。
行く先を尋ねても絶対にはぐらかされる。「お前には関係ない」という彼の言葉は、聞くたびにどうしようもなくやるせない気持ちにさせられる。
まだそんなに強くはないとは言え朝日は容赦なく肌に突き刺さった。
太陽は嫌いだ。あのぎらぎらとした光は彼女には眩し過ぎる。
このような早い時間帯に出歩くことは滅多に無い。こんな不愉快な気分になってしまうのも全てあの男のせいだと、彼女は理不尽な憤りを抑えきれずにいた。
結局彼が部屋に戻ってきたのは夜明け過ぎた頃だった。
ドアを開けて眠っていない彼女を目にし一瞬固まったようにも見えたのだが、いつものごとくそっけない態度で「なんだ起きてたのか」の一言。加えてすれ違う瞬間鼻腔をくすぐった残り香が、彼女の血を逆流させた。
手を上げたのは思えばこれが初めてだったかもしれない。
平手を食らわせたにも関わらず、怒りを見せるでもなく言い訳するでもなく、無言で何事もなかったかのようにベッドに潜る男に一層腹が立ち、彼の頭の下から枕を引き抜いて力任せにぶつけてやった。
眠れないのは誰のせいだと。
頭から布団をかぶっていても胸の中の黒い渦は大きくなるばかりで、安らかになどなれやしなかったというのに。
気づけば周囲は喧騒が飛び交っていた。
道の両側に立ち並ぶ露店。威勢のいい呼び声を受け流しつつ、忙しなくあちこちに足を向ける人々。生活サイクルが人と逆転している彼女はそれが朝市と呼ばれるものだとは知る由も無く、人の波に流されるままけだるげに歩を進める。
「ようお嬢ちゃんどうした、朝っぱらから景気の悪ィ面してんなあ」
活気のある人の群れの中で一人浮かない様相の彼女が目に付いたのか、傍らの露店主が声を掛けてきた。
「………」
立ち止まった彼女の視界に映るのは、愛想のいい店主とその前に並べられた新鮮な野菜達の数々。
「大方彼氏と喧嘩でもしたんだろ。まったく最近の若えもんはよう」
軽い調子で笑いながら店主は好き勝手に憶測を口にする。
「…違うもん」
口を開いたことで今まで堪えてきたものも一緒にぼろっと溢れ出した。
「そんなんじゃ、ないもん…」
恋人なんかじゃないから、彼がどこで誰と何をしようが彼女には何も言うことができない。
彼女がどれだけ歯痒い思いをしようと、それで彼を縛り付けることなどできやしないのだ。
一度外に出てしまった涙はたがが外れたように後から後から続く。
泣きたくなんてないのに、止めることができない。
うろたえる店主を前にして彼女はぎゅっと唇を噛み締め、ぽろぽろと涙を零し続けた。
漸く涙も落ち着き、彼女はふすふすと鼻をすする。
此処は人気もまばらな町外れの公園のベンチ。手の中には赤く熟れた丸い野菜があった。
あの店主には悪い事をしてしまったものだ。
何気なく声を掛けた娘に訳も分からず唐突に泣かれてしまい、周囲の露店仲間からは揶揄され通り行く人々にはじろじろと見られる始末。
泣く子を宥めようと決まり悪げに店主がサービスしてくれた商品を、彼女はじっと見つめる。
そういえば、彼が気まぐれに彼女に持って帰る土産もいつもトマトだった。
(あたし、トマトが好きなんて言ったこと無いのに…)
屋敷に居た時には口にしたこともない。外の世界に出て来て初めてその味を覚えた。
酸味を伴ったこの甘さには、疲れや気分を和らげる効果があるのかもしれない。
夜の鋭さがまだ僅かに残っていた空気が、太陽によってぬるさを増してくる。
流れた涙によって生じた渇きもトマトによって充たされ、ずっと張り詰めていた心は段々と解けてゆく。
その隙間に入り込んでくるのは疲労感と睡魔で、彼女は次第に目を開けているのも億劫になってきた。
公園の向こうの方では子供たちのはしゃぐ声がする。
そんな心地よいざわめきの中、木陰に遮られたベンチの上で、彼女はうつらうつらとまどろみに沈んでいった。
相方さん朝帰りでついかっとなった。
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