現在 / マチルダ
雨でぬかるんだ土を、黒い靴で踏みしめて歩く。
先は小高い丘になっていて、幼い頃はその意味も知らず駆け上ったりしたものだ。
こんな思いで此処を通る日が来るなんて思いもしないで。
この時季は毎年雨が多い。
3年前の昨日も、空からの滴が世界を濡らしていた。
僅かながらも休暇をとり実家に帰ってきた。
命日その日ではなく、その翌日の今日この地を訪れたのは、
他の誰かに邪魔をされるのが嫌だったから、なのかもしれない。
二人きりになるのは随分と久しぶりね
あなたが傍に居ない
それがもう3年も続いてるだなんて嘘みたいだわ
私の時間はまだ、あの日で止まったままなのに
あなたはいつも笑ってた
ねえ今も、
私の事を見て笑ったりしているの?
静かに降り続いていた雨もしばしの休息を得るようだ。
空にはまだ重い雲が広がっているが、見上げても滴が頬を濡らすことはなかった。
ぬかるんだ土の道が整えられた石のそれに変わる。
靴には僅かに泥が付いているが、それすらも愛おしく思えてくる。
「――マチルダさん?」
呼び止められて顔を上げる。
声の主は彼の母親だった。
そして或いは将来、自分自身も母と呼んでいたかもしれない人――。
「御免なさいね、呼び止めてしまって」
「いえ、後ほどご挨拶に伺おうと思っていましたし……
おじ様はお元気ですか?」
「ええ。あの人ね、最近絵を描く事に目覚めちゃったみたいで……
なんだかもう夢中なのよ?」
楽しそうに話す彼女の言葉に、こちらもつられて笑みがこぼれる。
この夫妻に子供は一人しか居なかった。
明るくてちょっと頼もしくて花のように笑う「お母さん」だった彼女の姿が、以前よりも小さく見えるのは気のせいばかりではないだろう。
歩きながら他愛もない話をした。
そのほとんどが、過去の彼に関すること。
二人の間に未来の話は無い。
もう永遠に、二人の関係が「家族」に変わることは無いのだ。
別れ際、彼女がおもむろに口を開いた。
「――ねえマチルダさん」
その口調に何かを感じ取り、知らず身がこわばってしまう。
「お願いがあるの。
あの子のところへはもう……来ないでもらえるかしら?」
いつか、言われるかもしれないと思っていた言葉。
心引かれつつも年に一度しか墓標の前に立つことができなかったのは、この言葉を聞きたくなかったが故かもしれない。
「あなたがずっと彼のことを想っていてくれるのは、凄く凄く嬉しい。
こんなにも好いていてくれるなんて、周り中に自慢したいくらいよ?
……正直に言うと、ずっと忘れないでいてほしい。でもね」
彼女はじっとこちらを見つめる。
強い、母親の目だった。
「マチルダさん、あなたはまだ本当に若いの。人生はまだまだこれからなの。
あなたをこんな風に縛りつけるなんて、そんなことあの子だって望んでやしないわ」
今までにも何度も周りから言われてきたことだ。
そんなことは判ってると言い、その度に心を閉ざしてきた。
ああなのに、彼の母親である人が言ったというだけで、何故こんなにも心乱されるのか。
「過去に囚われるのは、私たち夫婦だけで十分……」
重い雲がゆっくりと動き、僅かな隙間から光が射した。
なんて、残酷な輝き。
「あの子の事を私たちは誇りに思うわ。
彼の愛した人があなたで、本当に良かった」
そう言って彼女は笑顔を見せた。
私はその時、一体どんな顔をしていたのだろう
お墓参り。
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